東京都立大学が首都大学東京という名前の下に改組され、学会ばかりでなくマスコミにおいても都立大の名前が聞けなくなったのは卒業生の一人として大変残念なことです。また、青春の一時期を過ごした深沢キャンパスも無くなってしまいました。私自身は大学院の院生として昭和42年から47年まで5年間お世話になりました。
指導の先生は工業分析化学の荒木峻先生です。先生のお言葉の中で今でも以下の二つのことを強烈に覚えています。
(1) ガスクロマトグラフィーの研究をするならガスクロでなければできないことをやるように、ガスクロででもできるというような研究は意味が無い。
(2) 君に博士の学位を与えるが、これまでの業績では学位に値しない。将来への期待で与えるのだから、今後は学位の名に恥じない立派な研究をするように。
(1) については全くそのとおりで、研究者の端くれとして今でも研究テーマを考えるときには常に肝に銘じています。
(2) については、全く先生の期待を裏切ってしまいました。分析化学から環境化学の世界に入り、分析化学は研究する立場から成果を利用する立場になりました。唯一、先生に報告できることは「化学物質の安全性評価に置ける分析化学的手法の開発」ということで日本分析化学会から技術功績賞をいただいたことでしょうか。
私自身、学部は明治大学の出身であり、なぜ母校の大学院に行かず、都立大に行ったかですが、下記のような種々の理由がありました。
(1) 明治大学の分析はX線を用いる無機分析が主流であり、私自身はガスクロマトグラフを用いる有機分析の研究をしたかったこと。
(2) 当時から都立大学はstudent ratioといって、教員一人当たりの学生数が他の国立大学に比べても小さく、そこに魅力を感じたこと。
(3) 深沢校舎がテレビのドラマ(白い巨塔)に使われるくらいすばらしいものであったこと。
(4) 小学校、中学、高校を通じての無二の親友が都立大工学部で電気工学を勉強していたこと。
など、多数ですがもちろん、もっとも大きな理由は荒木峻先生の存在です。
当時の荒木研は都立大学からの内進生のほか、山形大、山梨大、理科大、工学院大、明治大など数多くの大学の出身者が集まっていました。また、企業からの研究生も毎年来ていました。これらが、研究室をさらに活性化させた一員と思っています。生物多様性の大切さが昨今言われていますが、まさに種々の大学出身者や社会人の存在という多様性が研究室の発展に相乗効果をもたらしたものと思っています。
大学院を修了して38年にもなり、私も大学教員の端くれとして母校の理工学部の学生を相手に教育、研究の指導をしていますが、当時私が荒木先生から受けた研究指導、学会参加への旅費の支給など、とてもとても先生には及びません。楽しかった思い出としては、わざと地方での学会にばかり発表して、先生から旅費を頂き、学会のついでに全国を回ったことです。最後のころは先生にもばれてしまい、「北野君、今度はどこへ旅行に行くのか」などと聞かれたくらいです。
一方、残念な思いでは第2次安保闘争です。当時、都立大学は全共闘の拠点とされ、深沢校舎も占拠されるのではないか、その場合には実験装置が破壊されてしまうなどという噂が広がりました。そこで大学院生も学部学生の学生闘争に理解あることを示そうと、工学研究科の中に院生会が組織されました。なぜか、他大学出身の私が委員長にされ、多摩川警察などに届出をして大学周辺のデモをしたりしました。それが、北野は左翼であると勘違いされ、就職でも多分に悪い影響となって出てきました。今考えると、ある政治的意識を持った先輩の院生の口車に乗せられてしまったのでしょう。私自身は右翼でも左翼でもない、きわめてノンポリの院生だったのですが。
私が在籍したころは都立大学工学部の黎明期であったと思います。先生方のほとんどは東京大学や東京工業大学から移籍してこられていました。その後、都立大学出身者が母校の教員となり、その先生方も今では定年で辞めています。これらの先生方が第2の時期を担い、現在は第3の時期、第3世代と思います。
残念ながら最近の都立大学については全く事情が分かりません。
私がお世話になったころとはまず、大学の名称が変わり、学部名が変わり、キャンパスの存在地も変わりましたが、長年培った研究室の伝統(いい意味でも悪い意味でも)をぜひ後輩の皆さんにも守っていただきたいと思っています。ちなみに荒木研の良い伝統は多くの大学からの院生や社会人からの研究生の集まりで研究室が活性化、学生同士で大いに議論、市販の分析機器に頼らず機器を自ら作り出すことなど、枚挙に暇がありません。一方、悪い伝統は、私自身はあまり悪いと思っていませんが、当時は目黒校舎に奨学金を頂きに行きましたが、奨学金をいただくと帰りに酒屋さんに行き、ビールを買って研究室で酒盛りをしたことなどでしょうか。当時の助手の先生からは、君らは私が返済しているお金で酒を飲んでいると嫌味を言われましたが。ちなみにその先生は全くアルコールが飲めませんでした。
大学の発展は学内にいる教職員の努力ばかりでなく、OBの力が大きく作用します。その意味でも、卒業生と緻密に連携をとり、首都大学東京としてそのユニークな名称に負けない、ユニークな大学に発展されることをお祈り申し上げます。